本記事は、2024年6月に開催したウェビナー「JCBの事例から学ぶ - 海外スタートアップと日本企業のオープンイノベーション」におけるJCBの講演内容をもとに再構成したものである。登壇したのは、2018年8月から2025年3月まで米国シリコンバレーに駐在し、JCBのオープンイノベーションを推進してきた堀口氏と、2025年4月より現地に着任した横手氏である。現地での試行錯誤や組織との向き合い方、そして金融機関としての変革の軌跡が、当事者の視点で率直に語られた。 イノベーションが国境を越える時代において、日本で唯一の国際カードブランドであるJCBは、従来の企業戦略を再定義し、グローバルな連携に取り組んでいる。本ウェビナーでは、シリコンバレーでの活動を通じて得られた知見、海外スタートアップとの協業の現実、さらにはグリーン・フィンテックなど新たな領域への挑戦についても言及された。
JCBのシリコンバレーオフィスの目的は、ユニコーン企業を含む有望なスタートアップと面談を重ね、収集した情報やアイデアを本社に連携し、活用していく活動の効果を最大化すること。そのうえで、堀口氏は、日本企業がしばしば直面する「ピッチャー・キャッチャー問題」に大きな課題を感じていた。
「ピッチャー・キャッチャー問題」とは、海外拠点(ピッチャー)が有望なスタートアップの情報や提案を本社(キャッチャー)に送っても、本社側にそれを受け取る体制や関心がなく、連携が成立しない状態を指す。この問題の背景には、本社が日本国内の事業にばかり注目しており、海外の動きに対する関心や優先度が低いという構造的な要因がある。また、本社側に海外市場への理解が不足していることや、海外拠点との信頼関係および共通言語(言語的・文化的両面において)が欠如していることも、情報の価値が正しく認識されず活用されない一因となっている。その結果、海外から貴重な情報が届けられていても、実質的には届いていないのと同じ状況となり、機会損失になっているのである。
「ピッチャー・キャッチャー問題」の対策として、堀口氏は、外部から一方的に提案を送り込むのではなく、社内の関係性を耕し、組織の内側から動かすことに注力した。仲間づくりやシリコンバレー拠点の認知向上に加えて特に重視した対策が、次の2点である。
1. “頼まれていない”調査レポートの配布(ゲリラ戦法)
ニーズが顕在化する前に先回りしてテーマを設定し、調査と分析を実施。完成したレポートを関連部署に送り届けた。中でも、コロナ禍における不正取引の急増を受けて制作した「米国における不正取引・未然防止対策のトレンド調査レポート」は本社社長の目にもとまり、役員向けの説明依頼へと発展した。
2. VCの研修を参考にした社内人材育成の導入
スタートアップとの共創に興味のある社員を増やすため、出資先であるDNX VenturesがLP向けに提供する研修プログラムを参考にし、社内向けの簡易版ワークショップをJCB単独で実施。実地での学びとネットワーク形成を促進し、スタートアップ文化への感度を高める土壌づくりに取り組んだ。 こうした“ピッチャー・キャッチャー問題”への対策を行うことで、堀口氏は、スタートアップ連携を推し進め、後述の実証実験や協業の具体化につながっていった。
JCBのオープンイノベーションは金融領域にとどまらず、サステナビリティ領域にも広がっている。2023年、JCBはグリーン・フィンテックに注目し、デジタル決済が環境目標に貢献できる可能性を模索し始めた。
当初、社内の反応は控えめであったが、転機となったのがカナダのスタートアップ「Arbor(アーバー)」との連携である。同社はファッションのサプライチェーンにおけるCO₂排出量の可視化を専門としており、JCBはこの技術を用いてキャッシュレス決済に関連するカーボンフットプリントの調査を実施した。
さらに、オランダ中央銀行による「デビットカードと現金の排出量比較」の研究を踏まえ、日本向けにホワイトペーパーを発表。そして、株式会社マッシュスタイルラボやLUMINE(JR東日本協力)の店舗で実証実験を展開。消費者は商品や支払い方法に関連するCO₂排出量を確認できるようになり、環境に配慮するブランドとの心理的なつながりが強まり、ポジティブな反応を得たという。
JCBとゲシェルによる本ウェビナーの中でも特に示唆に富んでいたのは、アメリカ、ヨーロッパ、日本という異なる地域におけるイノベーション・エコシステムの比較であった。この比較は単なる理論的な議論にとどまらず、日本企業がグローバルなスタートアップと連携する際に直面する現実の課題と可能性を浮き彫りにするものであった。
まず、アメリカにおけるイノベーションは、しばしば「スピードと自律性」の代名詞である。スタートアップは迅速に動き、失敗を恐れずに反復を重ね、市場の反応を通じて方向性を定めていく。この「規制は後からついてくる」という文化は、規制の枠に縛られず自由な実験を可能にし、エンベデッド・ファイナンスや生成AIのような破壊的イノベーションを次々と生み出している。高リスク・高リターンの環境であり、失敗も学びの一環として評価される。
一方、ヨーロッパはより「トップダウン型」のアプローチを取っている。欧州連合(EU)主導の規制枠組みに基づき、新市場が制度的に形成される傾向が強い。たとえばGDPRやデジタル市場法(DMA)など、政策によってスタートアップの行動が明確に定義されている。この枠組みは一見すると抑制的だが、同時にパブリック・グッドや倫理、持続可能性といったテーマにおいて、深い思考と独自の価値創造を促進している。
そして、日本はその両者の中間に位置するものの、独自の課題と文化的背景を持つ。歴史的に、日本のイノベーションには慎重さが伴う傾向が強く、精度やリスク回避、そして既存の企業構造や商習慣との整合性が重視される。そのため、海外で流行している技術やビジネスモデルを観察し、その成功が証明された後に国内で導入を検討する「様子見」の姿勢が一般的である。
横手氏は、こうした傾向が「アメリカと日本の間に5年から10年のタイムラグがある」と述べた。しかし、これは必ずしも劣位を意味しない。日本企業は、一度導入を決断すると、驚くほどのローカライズ力を発揮する。海外で生まれたソリューションを日本市場に合わせて細やかに適応させる能力は、世界でも屈指である。
たとえば、JCBが実施したグリーン・フィンテックの実証実験もその一例である。カナダやオランダの事例に触発されつつも、単に模倣するのではなく、日本の消費者に馴染みのあるファッション小売の文脈に落とし込み、支払い手段ごとのCO₂排出量を可視化する仕組みを構築した。これは、グローバルなアイデアを日本独自の体験に変換した好例である。
とはいえ、こうした文化的・制度的な違いは、海外スタートアップが日本市場に参入する際の大きな障壁ともなる。進行スピードは遅く、意思決定には時間がかかり、規制環境は安定している反面、外部からは不透明に見えることが多い。だが、そのような状況下でも信頼関係を築き、自社の価値提案を柔軟に適応できるスタートアップにとっては、日本市場は非常に深く、粘り強い顧客基盤を提供し、JCBのような信頼できるパートナーの支援を得られる魅力的な環境となる。
このグローバルな視点の違いが示すのは、イノベーションにおける文化的リテラシーの重要性である。単に製品が優れているか、マーケットサイズが大きいかといった観点だけでなく、「どのように」「なぜ」そのイノベーションが生まれたかを理解することが、真のコラボレーションを実現する鍵となる。
JCBは、こうした多様なイノベーション観の受容を通じて、自社の進化を遂げている。単なるスタートアップの導入ではなく、グローバルなイノベーションを日本市場の中で真に機能させるための枠組みを築いているのである。それは破壊ではなく調和を目指す、静かだが確かなイノベーションのかたちである。
JCBがスタートアップを選定する際に重視するのは、以下の3点である。
1. 戦略的フィット感
長期的なJCBのミッションに合致し、実際のビジネス課題を解決し得るか。
2. 真の価値提案
そのスタートアップが唯一無二として持つ強みは何か。それはスケーラブルで持続可能か。
3. 相互的なWin-Win関係
JCBがスタートアップに何を提供できるか(例:市場アクセス、規制知見、ブランド信頼)という視点を持っているか。
堀口氏は、「何を得られるか」だけではなく、「何を与えられるか」を考えることで、対話は深まっていくと語った。
例として紹介されたのが、米国のAPIインフラを提供するスタートアップとの協業である。同社の技術は組み込み型金融において大きな可能性を持っていたが、規制やビジネスモデルの違いを乗り越える必要があった。
ここで鍵を握ったのが、相互理解と信頼の構築である。JCBにとっては、アジア市場における課題解決という観点で大きな価値があり、スタートアップにとってもJCBのブランドや地域ネットワークは魅力的であった。このようにして、両者はPoCから事業化へと進展していった。
このJCB×GESHERウェビナーは、単なる成功事例ではなく、グローバルスタートアップとの連携を目指す日本企業にとっての「道しるべ」である。内部推進者の育成、実験への寛容さ、相互的な価値創出という3本柱を通じて、JCBは伝統的な金融機関から未来志向のイノベーターへと進化している。
急速に変化する世界経済において、日本企業が存在感を示すには、こうした現場からの実践知が不可欠である。スタートアップにとっても、日本市場への突破口となるヒントがここにある。
(i) 堀口智也 / Tomoya Horiguchi
株式会社ジェーシービー ブランドインフラ二部 ICインフラグループ 次長
SVP, Brand Infrastructure & Technologies Department II, JCB Co., Ltd.
(ii) 横手優太 / Yuta Yokote
株式会社ジェーシービーインターナショナル シリコンバレー拠点 拠点長
SVP, Silicon Valley Office, JCB International Credit Card Co., Ltd.
「本記事で印象的であったのは、JCBのような日本企業がオープンイノベーションに取り組む際に直面する内部課題を率直に語っていた点である。特に、CO₂排出量の可視化を目指すArbor(アーバー)との連携事例は非常に興味深かった。イノベーションが単なる『技術導入』ではなく、大企業の中で戦略的に交渉されるプロセスであることが伝わってくる。本ウェビナーは、従来の成功物語を超えた、現実的かつ貴重な示唆を提供していた。」