近年、バイオテクノロジーは単なる医療・ヘルスケアの枠を超え、国家の独立性や安全保障を左右する中核技術としての側面を急速に強めている。 2月14日、世界各国の閣僚らが防衛や外交について議論した「ミュンヘン安全保障会議」の公式サイドイベントとして、スタートアップ関係者を集めた「MSC Startup Hub」が開催された。そこではAIやエネルギー、サイバーセキュリティなど、広い意味での安全保障に関して、各分野の起業家が政策決定者らと意見を交換した。 なかでもバイオテクノロジーに関するパネルディスカッションでは、米国・欧州の実務家が集まり、国家・世界のレジリエンスを高める方法、そのためのスタートアップ支援のあり方について話された。世界の防衛関係者からも注目を集めた、本イベントの様子を一部紹介する。
1963年からドイツで毎年開催されるミュンヘン安全保障会議(MSC)は、世界各国の閣僚、国際機関代表や専門家などが集まり、防衛政策について議論を交わす世界トップのフォーラムだ。従来の議論は伝統的な軍事や外交に関する議論が中心だったが、2月13〜15日に開催された今年のMSCにはデジタルテクノロジーの専門家や起業家も参加し、世界の意思決定者と直接議論を交わした。
その背景にあるのは、近年、テクノロジーが軍事・防衛上の優位性を左右するようになっていることだ。MSCの副議長であるベネディクト・フランケ氏は「外交と起業家精神はともに世界の繁栄と安定の核となる能力であり、急速な技術変化が両者をさらに接近させている」と述べている。
そんななか、今年はMSCの公式サイドイベントとして、ディープテック起業家を集めた「MSC Startup Hub」が初めて開催された。AI、サイバーセキュリティ、エネルギー、バイオテクノロジー、宇宙、半導体など、幅広い分野のスタートアップと投資家、専門家が議論し、ネットワークを広げた。
そこでの結論は、最先端のイノベーションが国家安全保障の鍵を握る今、スタートアップが提供する最新技術を迅速に実用化・商業化する能力が今後の競争力を左右するということだ。
MSC Startup Hubの最終セッションとなる「Superspreader? - Europe’s Fight for BioTech(ヨーロッパのバイオテックへの戦い)」では、国家安全保障の観点からのバイオテクノロジーの底上げ、スタートアップ支援のあり方が話された。同分野は、従来「ヘルスケア・医療」の文脈で語られてきたが、近年ではパンデミックや生物兵器などに対する「防衛」においても中核的なテーマとなっている。
新型コロナウイルスのパンデミックでも明らかになったように、未知の病原体に対して、迅速にワクチンや治療薬を開発、製造・配布できる力の有無は国家の存続にかかわる。
9.11同時多発テロと、それに続く炭疽菌事件を契機に、その脅威にいち早く対応し始めた米国は、世界で最も強固で機動力のあるエコシステムを持つ。登壇者の一人で、かつては米国防総省やホワイトハウス国家安全保障会議において生物防衛を担当していたブラウン大学のベス・キャメロン教授によると、米国ではここ20年間で国家安全保障会議(NSC)などの主導で革新的なバイオテクノロジーの育成体制が整備された。
国防総省の国防高等研究計画局(DARPA)や保健福祉省の生物医学先端研究開発局(BARDA)が中心になり、イノベーションから製造、開発、流通に至るまでの全プロセスでの技術革新を支援してきたという。将来の脅威に対抗するために政府がリスクを取り、民間VCが敬遠するハイリスクな研究や収益化できない初期段階の技術に対しても巨額の助成金が提供されてきた。それが大学発の研究を商業化しようとする米国のカルチャーと合わさり、検査・治療法から防護具などまで、広い分野での技術革新につながっていった。
政府から支援を受けられるのは防衛関連企業だけではない。米国でバイオ系スタートアップに最先端のラボを提供するインキュベーション企業「BioLabs」のヨハネス・フリュハウフCEOは、彼の関わる「バイオテクノロジー企業の多くが、バイオ分野の能力開発に関わっているという理由でBARDAから支援を受けている」と指摘しており、その裾野の広さが伺える。
こうした平時からの蓄積により、COVID-19パンデミックに際して、米政府は「オペレーション・ワープスピード」で複数のワクチン候補に大規模な投資をし、迅速な開発が可能となった。
危機への備えに対しては世界最高水準であったが、パンデミック中の米国で明らかになったのは、できあがった製品を自治体レベルで実際に人々に届けるための供給・実施能力の不足であったと、キャメロン氏は指摘。そのようなボトルネックが生じないよう、防衛のためには「投資の初期段階から一貫して、供給までの全プロセスを考慮することが極めて重要だ」と強調した。
米国では潤沢な資金だけでなく、卓越したインフラとビジネス文化もスタートアップの成長を後押ししている。ボストン、サンフランシスコ、サンディエゴなどの「スーパーハブ」に企業が集まるが、これらの都市には強力なエコシステムがある。
たとえば、ボストンを中心とした共有型バイオラボラトリー「LabCentral」や全国展開される「BioLabs」などのインキュベーション施設は、初期段階のバイオスタートアップの事業化を支援する。通常、高額な実験機器を通常使用するバイオテクノロジー企業は、膨大な初期投資を必要とするが、これらの施設では最先端機器を備えたラボを低額で利用でき、ネットワークも得られる。その存在感は大きく、各地のBioLabs出身のスタートアップが、米国のライフサイエンス分野におけるシード〜シリーズA資金の20%以上を獲得するほどになっている。
さらなる米国の強みは、法務、知財、VCなどのビジネスインフラにおける「意思決定のスピード」にある。スタートアップ関係の専門家が信頼関係で結びつき、秘密保持契約や複雑な契約書を交わす前に、口頭ベースでトップクラスの弁護士や投資家がすぐに動き出せる体制が確立されている。
この「エコシステム全体の高速回転」こそが、有事の際に圧倒的な対応力を生む米国の最大の安全保障資産だと、シンガポール国立大学(NUS)のイノベーション・起業組織「NUSエンタープライズ」の戦略アドバイザーであるドナ・シー氏は指摘。世界銀行や米政府機関などで公衆衛生分野での経験を持つシー氏は、米国でヘルスケア・バイオ系スタートアップの支援・投資に従事したあと、出身地のシンガポールでVCを設立した。
シー氏は一方で、「米国より速いスピードで成長する中国のバイオテクノロジー企業に注目すべきだ」と語った。バイオテクノロジーを国家の最優先課題の一つとして位置付ける中国では、どこよりも迅速・安価に最新技術を開発・生産できる体制が整いつつあり、そのイノベーションの量には目を見張るものがあると指摘。
中国の最先端ラボラトリーはロボティクスによる完全自動化が進んで24時間365日体制で稼働し、圧倒的なコスト優位性を持つ。シー氏が最近訪れた企業では、細胞工学技術を用いた治療薬の製造コストを欧米のわずか10%にまで抑え込めていたという。人間の医師が介在しない「AI病院」もすでに出てきている。
「全体像こそ見えないものの、中国から圧倒的スピードで生み出されるイノベーションによって、今後10〜20年の間に転換が起こり、中国のバイオテクノロジー企業は、世界市場からより多くの経済的利益を得るようになるだろう」とシー氏は確信していた。
それに対し、生物学・医学の基礎科学において極めて高いレベルの研究を誇る欧州は、ビジネス環境の整備という意味では遅れをとっており、現在変革の過渡期にある。EUレベルで加盟国間の医療データの統合「欧州医療データ空間」の整備も進められ、生物学研究ではAIベースの設計が積極的に導入されてきている。今後、質の高い膨大な医療データ基盤が整い、バイオテクノロジー分野での研究も加速するだろう。
一方、ミュンヘンの自然科学研究機関ヘルムホルツ・センターで生物学研究にAIを活用した研究を進めるファビアン・タイス教授は、学術研究をすぐに実用化・商業化していく体制が欧州にはないと指摘。AIを用いて細胞の動きを予測する「仮想細胞」研究を世界各地の機関と連携して一緒に研究を進めるが、その事業化が欧州では進みにくいと嘆いた。教授自身も起業しており、欧州の創業数自体は少なくないものの、それぞれが競争して成長し合えるほどエコシステム全体として成熟していないのが課題だという。
スタートアップの成長を難しくしているのが、厳しい規制と官僚主義である。ドイツ出身の医師で、米国で起業したフリュハウフ氏は、「ドイツでは優秀な人材も歴史もあるにもかかわらず、米国のように事業を始めるのは難しい」と指摘。規制が足かせになっている例として、シー氏は、以前に出資を検討したフランスのスタートアップが、従業員を解雇できるよう、全従業員を「インターン」として雇用していた例を挙げた。極端だが、労働法が厳しいために、そのような行動に出る企業までいたのだ。
同じ国の大学同士が競争関係にあるためにエコシステムが分断されるなど、構造的な問題もある。しかし、学術的な基盤、人材がある欧州には、データ、AI人材が揃いつつあり、今後、発展できるチャンスは十分にある。
なお、MSC Startup Hubの運営に当たった、独スタートアップ支援組織の「UnternehmerTUM(ウンターネーマートゥム)」は、英経済紙『フィナンシャル・タイムズ』で、2024年から3年連続でヨーロッパ1のスタートアップ・ハブと評価されている。
ミュンヘン工科大学(TUM)によって2002年に設立された同組織は、毎年100社以上のスケーラブルなスタートアップを輩出し、2024年には同ネットワーク出身企業がドイツ全体のVC投資額の約3分の1となる総額20億ユーロ以上を調達したほどだ。バイオテクノロジーやヘルスケア領域においてもヘルムホルツ・センターなどと連携し、スタートアップを支援してきた。
一方、病原体は国境や地域を超えて移動するため、国や地域レベルだけでの対策では不十分だ。レジリエンスを高めるには、中低所得国も含めて世界規模での対策が求められている。
そのため、「感染症流行対策イノベーション連合(CEPI)」は、高リスクの病原体に対する研究・ワクチン開発を推進する官民パートナーシップとして、2017年に設立された。同組織のオーレリア・グエン副CEOは、次なるパンデミックに際して発生から100日以内にワクチンを開発・製造できるようにするための「ミッション」を掲げ、世界中の政府・企業からの資金提供を募っている。
同時に、CEPIは、ワクチンを実際に必要とするグローバルサウスでの製造体制づくりを進める。たとえば、西アフリカで流行するラッサ熱などの感染症に対しては、セネガルのダカール・パスツール研究所等の現地パートナーと連携し、現地で臨床試験から製造、展開までを一貫して行えるインフラ構築を進める。COVID−19パンデミックではインドで大量のワクチンが製造されたものの、同国で感染が広がるとその輸出が制限され、機能を分散する必要性が認識された。
この低・中所得国でのバイオ製造インフラ・能力構築という「パラダイムシフト」は、グローバルなヘルスセキュリティの底上げへと繋がっていく。
脆弱な国から広がるリスクについては、米スタートアップ・Ginkgo Bioworks(ギンコ・バイオワークス)も認識している。顧客向けに産業用の微生物を設計し、生物学的データのモニタリングとデータ解析を提供する同社は、ウクライナのバイオセキュリティ状況を無償でモニタリングしつづけている。
同社EMEA地域リードであるマックス・ブリード氏によると、戦争の続くウクライナではバイオテロリズムの脅威もあるほか、住民の免疫力が低下し、抗微生物薬耐性(AMR)の深刻な脅威にさらされている。その状況をモニタリングし、データ基盤を整備するために、同社は過去2年半、ウクライナの生体試料をほぼ毎週分析し、その結果を同国政府に報告してきた。AMRなどの見えにくい問題は、生物学的脅威として政府にも認識されていても、資金としてはすぐに拠出されにくいのが現実だという。
なお、ブリード氏は元軍人で、英国王立海兵隊の特殊部隊に10年間所属した経験を持つ。退官後、米国の防衛AIスタートアップ・Anduril Industries(アンドルー・インダストリーズ)の欧州展開を担ったが、近年、バイオセキュリティ分野に転身した。防衛技術の専門家がバイオ産業の最前線に参画している事実は、今日のバイオテックがいかに高度な安全保障と密接に結びついているかを如実に物語っている。
このように、バイオテクノロジーは国家の安全保障を大きく左右しうる重要分野となっている。
圧倒的な資金力とエコシステムで新技術を生み出す米国に対し、中国では驚異的なコスト競争力とスピードでイノベーションが生み出されている。高い研究実績をもつ欧州や、新興国も独自にレジリエンス構築に挑んでいる。
そんななかで日本はどうするのか。米国のエコシステムを牽引してきた「BioLabs」は、2026年夏、アジア初の直営拠点として東京にもインキュベーション施設を開設する。日本のスタートアップが、世界の最前線で培われたノウハウとネットワークと繋がり、飛躍するチャンスである。
世界の不確実性が高まるなか、こうしたネットワークの重要性は増している。シー氏によると、シンガポールがCOVID-19ワクチンをいち早く入手できた背景には、ワクチンを初めに開発したBioNTechやファイザーへの以前からの投資があったという。世界各地のバイオテクノロジー企業への投資や提携を通じて関係を築くことで、その安全保障網のなかに入り込むことができる。今、日本にも戦略的で積極的なアクションが求められている。
日本企業が、海外スタートアップとの提携を探る際、各国の安全保障と結びついたエコシステムの特性を理解することは、単なる技術評価を超えた不可欠な視点となるだろう。