フィジカルAIの衝撃、言葉で操るロボットが生まれる日

ChatGPTなど生成AIのインパクトは誰もが知るところだが、次なるフロンティアとして世界的に注目が集まっているのが「フィジカルAI」だ。 フィジカルAIとは、「デジタル空間で脅威的な能力を発揮したAIが、肉体を得て現実世界に飛び出した状態」を指す。つまり、人間が細かく指示を与えなくても、AI自らが視覚や触覚を通じて状況を読み取り、ロボットが最適な「動きを生成」できるようになることだ。 私たちがロボットに「皿洗いと洗濯をしておいて」と言えば、実際に作業を始めるという未来が視野に入ってきた。経済産業省によると、ロボット市場は2040年までに世界で約60兆円規模に達すると見込まれている。 そのホットな分野で急成長を遂げているのが、産業用ロボット向けのソフトウエアを開発するトレナー・ロボティクス(Trener Robotics)だ。2月には約50億円の大型資金調達を行い、光学機器メーカーのニコンも出資している。 このスタートアップを立ち上げたのが、グーグルが2022年に買収したロボット企業で開発エンジニアを務めていた、アサド・ティルミジ氏だ。 「過去4年間のロボット業界の変化は、それ以前の60年間の変化よりも劇的に大きいものだ」 ロボットの研究者として第一線で活躍してきた彼はこう語る。今この業界で何が起きているのか、そして私たちの未来はどう変わるのか、その深層に迫った。

ロボット工学、「激動の4年」

トレナー・ロボティクス(以下「トレナー」)の共同創業者アサド・ティルミジ氏は、 ロボット業界で15年間研究を続けてきた。その彼が見ている変化は、過去60年で見たことがないほど凄まじいものだという。

「これだけは断言できますが、この4年間で業界は大きな進歩を遂げました。今後、それらの高度な能力が産業界やサービス業、さらには一般家庭へと浸透していく『トリクルダウン効果』が起きるでしょう。」

その大きな進歩とは、ロボットが「人間の言葉を理解し、自律して考える」ようになったことだ。

これまでのロボットは全てプログラミングで動いてきた。精密な溶接や、ネジ締めも、専門家がロボットアームに動かす座標を入力し、その座標を移動するスピードを記録していた。精巧に動くロボットは、言ってしまえばプログラムに沿って動いていたに過ぎない。

 トレナーの「頭脳」を搭載してロボットを動かしている様子 
 写真提供:Trener Robotics 


しかしAI時代のロボットは、専門家でない人の指示に沿っても動くことができる。「A地点からB地点に箱を運んで積み上げて」と言えばロボットは作業を開始する。もう専門家のプログラミングは必要ないのだ。さらに、これまでのロボットはプログラムされていない不測の事態が起きれば止まってしまう。しかし、AIロボットは不測の事態で問題の解決法を探ることができる。

例えば機械加工をしている時に、ロボットアームから部品が落ちたとしよう。ロボットは落ちた部品を拾いなおし、もし握っている工具が滑りそうになれば、それを検知して「どうしたら立て直せるのか」と考え、一度工具を置いてから掴み直すことができる。

トレナーはまさに、この産業用ロボットが賢くなるための「頭脳」を開発している。

ロボットの頭脳「アクテリス」の正体

トレナーが開発するソフトウエア「アクテリス(Acteris)」には二つの能力が備わっている。一つは「判断」の能力だ。センサーデータを使ってロボットが周りの環境を理解し、プランニングをする。

例えば、「散らかった机を片付けて」という人間の指示に対して、「まず手前にペンがある。ペンを拾って、次にコップを移動させる」というように、タスクの優先順位と行動を自分で判断することができる。

 FANUCのロボットをアクテリスで操作するエンジニア 

写真提供:Trener Robotics


二つ目は、このプランニングを実際のモーターの動きに変換する能力だ。ロボットが動きを間違えば大きな事故に繋がりかねない。間違いを犯さずに「今、この瞬間に、この角度で、この力で動く」というアクションに落とし込む独自のアルゴリズムを持つ。トレナーの最大の強みは、この二つの能力を統合し、ロボットを作業現場で動かせることにある。そしてこの頭脳は、原則どのロボットにも搭載できる。

「現時点でファナック、ABB、ユニバーサルロボットと提携しており、安川電機、KUKA、その他約10社のメーカーとも交渉を進めているところです。」

見える効果、創業2年で15社と契約

トレナーのソフトウエアは、機械加工、物流、マテリアル・ハンドリング、組み立てなどを行うロボットに搭載されている。その効果は明らかで、現場では職人の働き方も変わってきているという。

「ある企業では、機械油にまみれて破片が飛び散り、凄まじい騒音と熱気の中で職人が8時間立ち続けていました。今は4台のロボットが動き、かつての職人はオフィスで加工状況や生産データを監視しています。」

またロボットは言わずもがな、24時間稼働できる。その生産性は極めて高く、典型的な経済効果として、ロボット一台につき年間約2200万円以上の生産価値を生み出すことができるという。これはロボットの本体コストの5倍、ソフトウエアのコストの13倍に相当する。

さらに、これまでロボットにプログラミングが必要であったことから、製造側は少品種多量生産で経済的メリットを出してきた部分がある。これが自然言語でロボットが動かせるようになれば、多品種少量生産にもしっかりと対応できるようになるため、ビジネスの裾野も広がる。

 共同創業者たち、ティルミジ氏(右)とラース・ティンゲルスタッド氏

写真提供:Trener Robotics


トレナーは創業わずか2年だが、アメリカ、ヨーロッパ、日本などに15社のクライアントがおり、その数は拡大している。今年は375のロボットセル(ロボット一台と、必要な機器を合わせた作業スペースの最小単位)の導入を目指しているが、来年は5倍以上、2年後には24倍の規模になると見込んでいる。

世界最高峰の「眼」を手に入れる

2月には、光学機器メーカーのニコンがトレナーへの出資を発表した。トレナーが今後、アクテリスの性能を上げていくには、超高精細なデータが必要になる。

暗い場所であったり、鏡のように光る金属、真っ黒な樹脂のパーツなどは通常のカメラでは見えにくい。このような状況において威力を発揮するのがニコンの技術だ。ニコンは、ミリ・ミクロン単位の識別を可能にする「ロボットビジョン」において、世界最高峰の技術を誇る。彼らの眼から得たデータで、AIが現状を認識し、アクションを起こす判断の精度を劇的に高めることができるのだ。

また、ロボットがカメラで捉えた情報は、一瞬で動作に変換されなくてはいけない。ここに遅延があれば、それは大きな事故につながることを意味する。その点においてもニコンのビジョンシステムは、人間の眼では追えないような高速な動きをリアルタイムで認識・処理する技術に長けており、トレナーの学習モデルの精度を極限まで高めることができる。

ニコンのような最先端のビジョン技術を持つ企業に、私たちのAIコンポーネントが加わることで、世界に強いインパクトを与えられるはずです。私たちのAI知能は、彼らのカメラをよりユーザーフレンドリーにもできると思っています。両者は互いに恩恵を受け、利益をもたらすような関係になれると思っています。

Googleでできなかったこと

ティルミジ氏は、現在グーグル傘下にあるロボット企業、イントリンジック(Intrinsic)に買収されたバキャリアス(Vacarious)で技術開発に関わるエンジニアをしていた。
バキャリアスは「人間のように見て、理解し、学習する」という知能の根本的なアルゴリズムを、ゼロから再構築していて、ジェフ・ベゾス、イーロン・マスク、そしてマーク・ザッカーバーグなど名だたるテクノロジストが熱狂して投資した企業でもある。ただ高度な理論を、実際のロボットにどう実装するかという困難から、2022年にはグーグル傘下のイントリンジックに買収された。

「バキャリアスは、現在のAIアルゴリズムやデータへのアクセス量などが整う前の時代、『前世代のロボット企業』だと考えています。当時、最先端でしたが、今我々がやっていることを実現する技術的なバックボーンやインフラがなかったのです。」

グーグルもロボット分野に本格的に参入する姿勢を見せているが、ティルミジ氏はあえてグーグルに残らず独立する道を選んだ。

「グーグルは優れたテクノロジー企業ですがロボット企業ではありません。製造現場やサービス業のペインポイントが理解しきれていないと思ったのです。また、バキャリアスを作ったメンバーの中には素晴らしい知的財産がありました。独立すれば、より迅速に進歩できると考えたのです。」

そして今、トレナーはロボットを賢くする頭脳開発で飛躍的な成長を遂げている。

フィジカルAIが変える未来

3月、日本を訪れたティルミジ氏は人類が直面している「高齢化危機」を改めて実感したという。その高齢社会の課題解決にロボットが有益なのは言うまでもない。

「問うべき問いは『ロボットのプログラミングをもっと簡単にすべき』とか、『ハードウェアを安くすべき』ということではありません。『どうしたらロボットが有用な仕事ができる能力を上げられるか』です。」

ティルミジ氏は近い将来、引退した老夫婦がロボットを管理してビジネスを運営する、という光景を目にするだろうと語る。ただそれがいつなのか、彼自身も想像できないという。

「ロボットの能力は年々劇的に向上していきます。ですから、今から3年後、5年後にどれだけ能力が向上しているか、正確に予測することはできません。ただ、器用さ、操作の安定性、重い重量を扱う柔軟性は大幅に向上するでしょう。」

 ユニバーサル・ロボットをアクテリスで操作するエンジニア 

写真提供:Trener Robotics


世界のロボット分野の投資案件を見ると、2025年は2024年の1.2倍の1710件、金額にして5兆2500億円規模に膨らんでいる。これは1年で2倍になった計算だ。トレナーの開発領域に参入するスタートアップも増えており、競争がヒートアップするなか、彼らの勝算はいかほどなのか。ティルミジ氏は、今の現状を非常にポジティブに捉えている。

「どれほど競争があろうと関係ありません。なぜなら私たちが追いかけているパイがあまりにも巨大だからです。私たちが追いかけるのは『人間の生活、労働』です。人類がピラミッドを作っていた時代から今日に至るまで、労働に費やされる資本、時間、労働量は、膨大で途方もない。ここに必要なイノベーションを考えれば、多くのプレイヤーが活躍する余地は十分にあります。」

巨大な市場を前に、競合すらも歓迎するティルミジ氏の余裕は、自社の技術への絶対的な自信の裏返しでもあるだろう。そして今、圧倒的な破壊力を秘めたフィジカルAIが、私たちの想像を遥かに超える領域へと社会を導こうとしている。

ゲストプロフィール

Asad Tirmizi(アサド・ティルミジ) Trener Robotics 共同創業者&CEO

ロボット工学の博士号(PhD)を持ち、その研究は、特定の目的を持ったロボット、スキルモデルの開発に焦点を当ててきた。これまでに、ByteDance社や、Googleに買収されたVicarious社などでロボティクス研究者を務めた経歴を持つ。ロボティクスおよびAI産業を加速させることを目的とした「ABB AIスタートアップ・チャレンジ(24年)」の勝者に選出されたほか、欧州連合(EU)では「次世代のイノベーター15人」の一人にも選出されている。

言わずもがな、ロボットは日本のお家芸。フィジカルAIの時代は、日本が長年培ってきたハードウェアの優位性をデジタルと統合し、グローバル市場で大きなプレゼンスを取り戻す絶好の好機になるはずだ。海外のスタートアップの日本進出も増え、より厳しくも健康的な競争が起きると予想され、「新たな波」がもたらすチャンスに大いに期待している。